数式を扱うにしたって自然言語の能力が非常に重要なのは変わらないんだよなあ。
その数式がどういうもので、何を表していて、それの定義は何かとか、そういうものは自然言語で書かれてんだから。
日本人なら日本語、外国なら英語かな。
今ではドイツ語やフランス語も英語世界に組み込まれていってるらしいけど、日本語はなんか未だに独自で張る能力持ってんだよね。
日本人の日本語で表現できないものなんてないんじゃーって自負なのかな。まあそんな自覚はないんだろうけど、心の奥底ではそんなこと思ってる感がある。
そして本当にそれを通してしまうんだからなんというかまあすごいわな。
そういう世界言語たる資格を持っている日本に産まれたのはまあ幸運と言っていいね。(世界言語の主力は英語だけど、日本語も化け直す可能性が十分ある。劣勢ではあるが、巻き返しがきくラインはちゃんと保持してんだよね。)
そのかわり言語運用に必要な能力がかなり高いけど。
日本語を自由自在に使えるならどこ行ったってどうとでもなるだろう。
ま、日本語を自由自在に使えるってのが日本人でもいるかどうかって世界だけど。
広さも深さもすごいんだもの、日本語。
あと最近気付いていない人多いけど、言語ってのは実際にあるものを表現しようとしてできてるんだよね。(ここでいう「ある」には頭の中にあるものも含める。ドイツ語で言うところの「概念」は「掴むもの」みたいな単語である。頭の中で掴んだものが概念というわけだ。)
当然、表現したいものと、表現された言葉には差異が生じる。
100%言葉にできるわけあるかい、とも言えるけどね。
人によって言葉を見て頭の中で展開する意味合いが違うのは当たり前だし。
何かしらの理論を主張する時、その差異をどうにかして共通化しようとしてもがくのが宿命となる。
誰にも間違えられないように定義をはっきりさせてそれを嫌になるくらい徹底的に周知させなければ話にならんもの。
それでも誤差はどんどん出てくるもんだけどね。
例え話がマジ話として受け取られて誤解を通り越して曲解に等しいものが流通したりするし。
物理的なものなら実物が大正解になるんだけど、全ての実物を全ての人が触れるというわけでもなし。
どこかで誰かが言うからそうなんだろうと了解するしかない。
全てを体験することなんてできないのだから。